文学的なポストイット

いよいよ北欧に行く日が近づいてきて、楽しみすぎてもうなんだか頭から角が生えてきてしまいそうだ!

それはともかく。

今日はホワイトデーだった。

私は職場におけるバレンタインデーには昨年と同様「チョコをあげません」というメールを予め男性陣に出していたので、ホワイトデーに物質的な何かをもらう資格がない。

だけど今日、職場の給湯ポットの前にチョコレートクッキーの箱が置いてあった。カナダ人の同僚からのギフトだった。

Happy White Day!

という緑色のポストイットが貼ってあった。

それはこう続いた。(実際には英語で)

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ハッピー・ホワイトデー!

これは女性の皆様にどうぞ。

ソーリー、ジェントルマン!

今日は “立ち入り禁止” です

(人生はいつだって××× 。)

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最後のカッコ内の「人生はいつだって〜」の一文を読んだとき

わたしはひっくり返るくらいにしびれた。

偉大な小説の偉大なエンディングの、最後の一行を読んだみたいな気持ちになった。しばしそこに立ち尽くした。

村上春樹が「多崎つくる〜」の中で、気の利いた人生の警句を発するのはフィンランド人共通の特徴なのだろうか、という事を書いていたけれど、このチョコレートクッキーの持ち主がその種の人なのか、あるいは、私は英語を外国語として読むから、ネイティブにとっては何気ない文章が、感覚の切れまくった衝撃の一文に感じられただけなのか、わからない。

(だいたい、英語が、とても短く、少ない単語の組み合わせで多くを語るような文の構造に出会うとき、私は感動するから。)

ただあとで、女性の同僚に聞いた所によると、彼は今朝ほど、

「もうすぐ春だなあ。街の人のコートの色が少しずつ春っぽくなってきたよね。僕も春物のコート買わないとなあ」

とぼんやりと日本語でつぶやいていたそうだから、

こういうことをつぶやく人ってのは、

ポストイットの殴り書きも自然と文学的なものに偶然なったりする。

そういう気がする。

いずれにせよとても幸せな気持ちになったので、私なりにつたない英語にて、その気持ちをメールで書き、

ポストイットをもらい、

ついでにチョコレートクッキーももらった!

チョコあげてないけど!

Thank you!

注):あまりにも素晴らしい一文だったので敢えて「×××」の部分は秘密で。

冬の北欧を知るために

冬の北欧について知るために村上春樹の「遠い太鼓」を買ったのが昨年9月のことだった。

それでとりあえず寒いのは当然のことながらろくに美味しい食べ物もないようだし、非常に微妙な感じだった。

なのに結局、行くことにした。

せっかく寒い時期に行くのでヘルシンキではなくもっと北に行く。

不思議なものだ。

凝りに凝った皮肉(わたしのにくめない上司)

とんでもございます〜

って電話口でいかにも恐縮してる風に上司が言っていたのだが、電話を切り終わった直後、彼に

「さっき、『とんでもございます』って言ってましたよね?」

と尋ねたら

「ええ?ほんとうに?」

と目をぱちくりさせて驚いていた。最強やな。

「もしかして相手も思わず聞き流してしまうほどに深く隠されたあらての皮肉ですか?」

「とんでもない!」

「あ、そう」

その後、彼は「とんでもございます」という日本語があるかどうかねんのためGoogleで調べたが、発見したのは、「とんでもない」で一語の形容詞であってそもそも「とんでもございません」もナシ、言うとしたら「とんでもないです」であって、「とんでもございます」など意味は誰も(ヤフー知恵袋でさえも)質問していなかったし答えている人もいなかった。

「へ〜〜」

と、職場メンバー一同、勉強になった。

Good Job !

文(ふみ)

私には熱心に小説を読んだ記憶というものがなく、一体これまで何をして生きてきたんだろうかと思う。

実家に帰るたびに、高校3年生のままで時の止まった私の部屋の本棚を眺めては複雑な気持ちになる。

そこは主に三つの要素で構成されている。一、漫画「ちびまる子ちゃん」が15冊くらい。二、赤川次郎の推理小説がずらっと20冊ほど。三、それ以外。

ちびまる子は小学校の時にはまった記憶があるけれど、赤川次郎はいつ、なぜ、これほど読んだのか?まったくの謎である。(そしてストーリーについての記憶が一切ない。主人公の名前も。)

そして「三」に含まれる物の中に、唯一、私が誇れそうな小説の背表紙を発見する。

「O・ヘンリ短編集」(一)、(二)、(三)。

これは確かに読んだ記憶があるし、そして四ッ谷あたりにある某私立大学の受験の時に、そこは英文学志望者は筆記試験の後に英語面接を受けなければならなくて、その時に、「どんな外国文学を読んでいるか」と聞かれて「読んでない・・・」と思いながらもかろうじて回答にふさわしいものの名を挙げる事ができた、それが「O・ヘンリ」という記憶がある。もしその面接官がもう少し利口で「ほかには?」と聞いていたら私は大ピンチに陥っていたと思うのだけれど、その時の彼は、「ほほう」と割と嬉しそうな満足げな表情になって、次の質問へと移ったのだった。

(ちなみにその質問の前に、「日本文学では何を読んでいるか?」と聞かれてかろうじて挙げられたのは灰谷健次郎、であった。しかし灰谷作品を読んでいたのは小学校4、5年の頃である。大学受験の面接でまさか小学校時代に読んでいた小説家の名前を挙げてお茶を濁す人間がどこにいるだろうか。私を除いて。)

今思えばこの時の英語面接のその場しのぎ感というのはものすごいもので、もう一つ別の、外国語学部英語学科、だったか同じ英語なのだけれど微妙に違うコースを受験した時の面接では「入学後は何を学びたいか」と聞かれて、しかしその人がネイティブ・スピーカーなものだから速すぎてなんどもその質問を聞き返して、あげく、何と答えたら良いか分からず「シェイクスピアを読みたい」と答えた。するとそのネイティブ・スピーカーは「了解。しかしシェイクスピアはここでは読まないけどね」的なややいじわるな何事かを言って次の質問へと移った。

さらに今思えば、この大学は大人になってから知ったけれど英語関係の学科などに行った日には帰国子女や留学経験者がゴロゴロいるのだから、私のような北関東から一歩も出ずに地元の公立高校でぼけっと過ごしたような人間が行ったらひどいめにあっていたと思う。友だちは一人もできずに登校拒否になっていたんじゃないかと本気で思う。O・ヘンリーと答えた時に少し嬉しそうだった面接官のことを私は結構好意的に記憶しているけど、入学だけはしなくて本当に良かった。だいたい、当時は英語が得意だし「好き」だったから英文学科と英語学科を受けたらいいじゃんというノリだったけどいまでは英語を勉強するのがどちらかといえば苦痛である。

高校生の自分が考える事はほぼアテにならない。

恐らく小学生の時はまだ多少の小説を読んでおり、それが上述の「二」であり、中学と高校はほぼ一切読んでいなかったに違いない。O・ヘンリを除いて。人が本を例えば50冊くらい読む時間の全てを、スピッツのCDを延々とリピートして聞き耽っていたのだろう。

そんな訳で、私を救ったO・ヘンリという人が書いた小説については、十年以上の時を経て、再読しようかと思ったりしている28歳の今日この頃である。

(間違っても「ちびまる子ちゃん」や「赤川次郎シリーズ」が誇れないといっているのではない。いずれも10代とそれ以前(のことを何て呼んだら良いんだろう?ゼロ代? の私に寄り添っていた大切な本なのだから、間違いなく。)

今週末に迫った

日曜日の結婚式で歌う歌を準備している。

オザケンの「僕らが旅に出る理由」と自分で書いた曲を歌う。

結婚式で流すBGMについて、歌詞に「別れ」やそれを連想させるものが入っていないかどうかを気にして、「ああ、これもだめか、こっちもこんな歌詞だったのか、だめだ!」となることがあるらしいけれど、

私は私がぜっったい、いいと思う選曲をしたと胸を張って言える!

(といいきかせる)

あとは練習に専念するのみだ。

日曜日に集まった人たちの中だけでいいから、そこで、この歌が今日鳴り響くことが素敵だなと思ってもらえたらとても嬉しい。

特に、家族がそんなふうに。

スピッツ / 小さな生き物 (by spitzclips)

特別な日だという気分だったので花を飾った。
花が嬉しいのは最近家にいる時間が長いせいかもしれない、こうやって北欧人はインテリア文化を発達させていったのだろうか。。など考えたりする。
お花を買って飾って数時間後、
さらに素敵な出来事が起こり、この日はやっぱり特別な日になった。

2013年8月3日

特別な日だという気分だったので花を飾った。

花が嬉しいのは最近家にいる時間が長いせいかもしれない、こうやって北欧人はインテリア文化を発達させていったのだろうか。。など考えたりする。

お花を買って飾って数時間後、

さらに素敵な出来事が起こり、この日はやっぱり特別な日になった。

2013年8月3日

僕と上司は密室会談をする

別々の職場で働く同年代と再会して近況などを聞く。

残念な面談についての話題。
会社員をやっていると、上司との目標達成の確認や評価のための面談?のようなものが時々ある。年に何度か。

どうもいくつかのタイプがあるねという話になった。

①信じて疑わない

お前は優秀だからこのまま頑張ってAやBといったことを目指してくれていいんだという道を示される場合。

AもBもまったく魅力的と思っていないし興味もないのだけどそのことに上司は気づいていないらしい。そして、この話をする時の前提として、これを言っている本人は「上にいる人」、「お前達から目指されるべき位置にいる成功者」として語っているらしい。

自分が望むように、目の前にいる部下もそれも望むしそれこそが成功であり素晴らしいことに違いない、

とどうして疑わずにいられるんだろう。

前提が違うまま、価値観を押し付けられるこの感じが早く過ぎ去れば良いのにと思い若者は口を閉ざす。

前提の違いに目を向けようともしないこの人と、創造的な仕事ができるだろうか?本音を語る意味があるだろうか?

そういう「?」をお土産にもらうことが多いんだけど、例えばこのことについて気づくきっかけを与えられなかっただけで自信の上塗りが進行しているのだとしたら、もし、言ってみたらどうだろう。ちょんちょん、と肩をつついて。その思い込みについて。

不惑の40代をぐいぐいいっているような相手に対して・・・?

シラケではないアツイ未来が待っていたりするだろうか。

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②言わねばならない哀愁

①と同じくAやBを示すのだけど、でも、

「ああ、この人は本気でそう思っているわけではないけど、立場上、中間管理職としてこう言っているんだな」、と感じられる場合もある。

そういう時はもう、哀愁。

同じように半々の気持ちで、ポーズとして乗っかってみたりする。

そーっすよねえ。

・・・・

確かに、いいですよねえ。頑張ります。

これは共犯みたいなことなのかな。寂しいような生暖かいような気持ちも抱えつつ、同じ人間だし、上司のあなたも頑張ってねという気になる。

 

 

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③本当になにもない場合

本当に正直に何も示すべきビジョンがなくってそれを本当に正直に言ってしまわれる人もいる。

自分なんてお手本にならないけど・・・というダメキャラを潔く認めていたり。

でもさすがにそれで終わりじゃない。

慰めみたいに小さな事一つ二つでも、希望となる断片を見つけて、ぽつり、ぽつりと言葉を付け足す人がいたりする。

そーっすよねえ。。

希望となる断片があまりに些細な事柄すぎたとしても、そしてあまりに心もとないなと思ったとしても、

面談の部屋から出てドアをパタンとしめたとき、

「そして私はどうしよう?」

と力がわいてくるのはこの場合だったりする。

ちっさなちっさな(多少こじつけみたいな)希望の破片をちゃっかり握りしめながら。

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20代も終わりに近づいてくると、色々なBossと、色々な面談を経ている。

若手の、受け手のこんなもやもやを拾い上げてみたら、もっと、どうだろう。リーダーシップ考察などというのは。

2013年7月28日

愛のガチモード/ryo fukawa (by Fukawa Ryo)

音楽愛!!!!

メッセージ

アメリカ帰りの同僚がお土産をくれた。

①黄色い蛍光ペン

②絆創膏

③ボールペンと黄色い蛍光ペンと合体したタイプのペン

ちょう嬉しい。

これは何かのメッセージだろうか。

たくさん働こう、そしてたくさん傷付こう、

とかそういうことだろうか。

シンシアローリーがデザインした絆創膏をいつどの部位に貼ったら良いのか誰かそのタイミングを教えてほしい。

あとこの蛍光ペンは「ここぞ」という時にここぞという文言を照らすべきと思うんだけどそれはいつなんだろう。

~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ ~ 

メッセージといえば私は今日パースの記号論について勉強した。

さらにはホフマイヤーさんという人の生命記号論というものを聞きかじった。

この世界はメッセージ。

細胞はメッセージをやりとりし、

生命とはその記号を解釈しつづける。

これについて考えている間中、どうしてもオザケンの歌と、

ユーミンの歌が頭をちらついて仕方なかった。

この愛はメッセージ。

あるいは、

目にうつるすべてのことはメッセージ。

 

これは何かのメッセージ。

あれも何かのメッセージ。

   

で、わたしはあのお土産①②③を意味解釈して、

それは”エール”なのだと受け取った。

本当に嬉しくて涙が出るよ。

家族トーク

今日は家族あつまって食事をした。

みんな色々あるけれど、

家族でryo fukawaの話題で盛り上がった。

兄はその場で life is music を予約した。

楽しかった。

帰り、代官山蔦屋に寄って、図鑑とピアノの形をした電卓を買った。

これらはそのまま明日から職場のデスクで使おう。

残念ながらピアノの電卓は音が出ないが職場で使うのだから仕方ない。

職場には既に動物がいくつか置いてあるのでスペースの都合上そろそろ図鑑という書式に切り替えるのは懸命だ。

寄り道をしていたので、

突然の雨に降られた。

楽しかった。life is music楽しみだなあ。

どうして彼らの目には

職場の男性で誰が好みかと先輩が質問してきて、食い気味に「そんなものはいなくて、そんなことより私の中で最近ケンコバさんが好きすぎるんです!」と答えた。水回りにネズミを置いているというあのケンコバさんである。

しかしながら私の職場には、素敵な女性はたくさんいる。

中でも私の好きな女性の一人、彼女は違う部署だし、職場にきてまだ数ヶ月しかたっていないと思うのだけど、私が好きだと思う人が常にそうであるように、少し話しただけで感じる「好きな感じの感性の風が吹いている人」なのだ。

月曜日の朝、会議でたまたま隣の席に座っていた彼女は、解散際に、とても控えめに「元気?」と私に聞いた。

そっと差し出されたハンカチのような、その言葉に私は思わず「ううん」と頭をぶんぶんとふった。

○o。.○o。.○o。.○o。.○o。.○o。.○o。.○o。 

 

火曜日の朝、彼女からメールが送られて来た。

「夕立にて」

というタイトルだった。

こんなタイトルのメールを書ける人がほかにどこにいるだろう?

どうして人が長い時間を過ごす、会社という組織の場所では、

こういう美しさに誰も立ち止まらないのだろう?

私だけの手では溢れていく、これらの物事について、

一生懸命運んで行く。

そして彼らの目にも映る時が、きっとくる。