届かなかった郵便

  色々な金曜夜の気分というものがあると思うけど、今日の気分は好きだ。「やったー飲むぞー」ではなく、「全然仕事が終わらない・・・」でもなく、8時前に仕事を切り上げて帰宅して「あーこれからさらに楽しみ」という気分。家に着いた瞬間に今日二度目の朝を迎える気分。

 なぜなら今日は尊敬すべき二人の親友からの原稿が届くはずだから!私たちは毎月二十日に原稿を送り合うことにしている。そうして月に一回、お互いの執筆状況を報告する。褒め合い、励ましあう。この「今月の分」が待ち遠しくてわくわくする感覚って、どこまでさかのぼれるだろう・・・?と考えてみると、小学校低学年の頃、「りぼん」を買っていた頃に行き着く。学研のおばちゃんは楽しみじゃなかったな。ていうか学研、とってなかった。「りぼん」を買わなくなってからの楽しみは、たいてい、スピッツのCDが発売されるときだけど、今現在に関して言えば、スピッツはめったに新曲を出さないし、その他、小沢健二、銀杏BOYZ、andymoriと、どうも私の好きな音楽家の人たちは皆、あんまりマメマメしくCDを出さないもしくは解散している、もしくは・・・うむ。だからこういうワクワクワクワクワク家に着くまちきれなくて封あけてしまいます電車の中でええ!!……みたいな気持ち、味わう機会はあまり多くない。

 それが、ここへきて、である。30歳目前になって毎月二十日を過ぎると「郵便受けをあけるのが楽しみ」で、そこに封筒を見つけると、部屋に戻るまで待ちきれなくてエレベーターの中で封を切ってしまったりする。こういうのは幸せだし、なんというか、人に自慢したくなる幸せだ。

 ところが今日は届いているはずの郵便のうち一つが届いていなかった。なんてこったい。なんてこったい。郵便の人め、間違えたに違いない!!と私は思ったなぜなら、私の家には二度ほど間違った郵便が届いたことがある。最初は、「へ〜こういう風に間違えることって、あるんだあ」と思ったのと、どこでどう間違ったかを確認だけした。その結果、たしかに、似たような数字から構成されている住所の人宛だった。(名前は全然違うんだけど。)例えば「一丁目二番地三号」が正しい住所だとしたら、「十二丁目、三番地、五号」の人の郵便がうちに届いちゃう、みたいな感じです。数字の雰囲気、似てる、みたいな。似てねえよ!っていいたいけど。

 そして二通目に関していえば・・・はい、すみませんけれどうちに間違って届いたやつは、「あ、ポストにもう一度投函してあげなきゃ」の気持ちを四日間引きずったあげくに、私生活がなんだか大変だったりしてそれどころじゃなくなって、いつまでも玄関に放置されているそいつを夜、発見するたび、「ああ、今日も出しに行くの忘れちゃった・・ごめん」と思って、「なんで罪のない私が、この郵便物に対して罪悪感を感じなければならないんだ!」って腹が立ってきて、いまいましくなってきて、私生活がますます大変になってきたある晩に、「ええい!」と思い、捨てました。そいつを。だって、どこかのデパートからの夏のカタログだったから。きっと、単なる、ダイレクトメールのたぐいよ。だから、これが届かなかったからってこの人、きっと、たいして、困らない・・・はず!

 と必死に自分に言い聞かせた。

 言い聞かせているうちに、「なんでそこまで私がこの郵便物に心をいためなければならないんだ」ってやっぱり腹が立ってきて、もう、忘れた。

 郵便物には罪はないのですけれども。

 で、何が言いたいかって言うとつまりはそういうこともある。から、私が心待ちにしている原稿は、誰かの家に間違って届けられて、「ったくめんどくせーな・・・」と思われて、肩身の狭い思いをしているかもしれません。それか、案外ひょっこり、明日かあさってくらいに、うちに届けられるのかな。

 待ってます。

yuyuyuyu-hana:

—mm—:

*
色んな日

色んな夕空

色んな気持ち

*

すごいタイトル

せっかく3人集まって小説を書いているんだから同人誌でも出そうぜ!「白樺派」みたいにさ、

・・・という話をしてしばらく経つ。

で、8月に入り、とりあえずタイトル(雑誌の)を考えようぜ!

・・・ということになり、毎日だらだらと、思いついたタイトルを思いついたときに投げ合っている。こういうのは楽しい。けど、なかなかすごいタイトルってのは思いつけない。タイトルを決めるだけで半年くらい平気で経つ。経ってもおかしくない。

ところでそんな折り、

「どうでもいいけどさ、こうして考えて見ると『アーガイルの憂鬱』って名タイトルだよね」

と1人が言った。

突然飛び出したそのワード。思い出される熱い夏。

なによりも、もしやこれは私が経験したことのある人生最大の褒められでは?と思った。くらいに嬉しかった。

自分の大切と思うものごとを、自分の大切な人や尊敬する親友から素敵だねと言われることはとっても嬉しいことだね。

そう思った。

まあ、タイトルを考えたのは私じゃないけど!

もう何年前だろう。ある意味でこれは夏っぽい、とても夏っぽいアイテムだ。

http://www.amazon.co.jp/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%82%AC%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%81%AE%E6%86%82%E9%AC%B1%E3%80%9C%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%93%E3%82%B9%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%82%92%E6%84%9B%E3%81%97%E3%81%9F%E7%94%B7%E3%80%9C-sunset-DVD-%E3%81%B5%E3%81%8B%E3%82%8F%E3%82%8A%E3%82%87%E3%81%86/dp/B002N0YEBQ/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1407510586&sr=8-1&keywords=%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%82%AC%E3%82%A4%E3%83%AB%E3%81%AE%E6%86%82%E9%AC%B1

P.S

と思って調べてみたら作ったのは2009年のことであった。そして2014年になってレビューを書いてくれている人がいたことに、またさらに嬉しくなった。

たまってきたので

フィンランドなページを作成しました。

http://myfavoritethings-finland.tumblr.com/

文学的なポストイット

いよいよ北欧に行く日が近づいてきて、楽しみすぎてもうなんだか頭から角が生えてきてしまいそうだ!

それはともかく。

今日はホワイトデーだった。

私は職場におけるバレンタインデーには昨年と同様「チョコをあげません」というメールを予め男性陣に出していたので、ホワイトデーに物質的な何かをもらう資格がない。

だけど今日、職場の給湯ポットの前にチョコレートクッキーの箱が置いてあった。カナダ人の同僚からのギフトだった。

Happy White Day!

という緑色のポストイットが貼ってあった。

それはこう続いた。(実際には英語で)

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

ハッピー・ホワイトデー!

これは女性の皆様にどうぞ。

ソーリー、ジェントルマン!

今日は “立ち入り禁止” です

(人生はいつだって××× 。)

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

最後のカッコ内の「人生はいつだって〜」の一文を読んだとき

わたしはひっくり返るくらいにしびれた。

偉大な小説の偉大なエンディングの、最後の一行を読んだみたいな気持ちになった。しばしそこに立ち尽くした。

村上春樹が「多崎つくる〜」の中で、気の利いた人生の警句を発するのはフィンランド人共通の特徴なのだろうか、という事を書いていたけれど、このチョコレートクッキーの持ち主がその種の人なのか、あるいは、私は英語を外国語として読むから、ネイティブにとっては何気ない文章が、感覚の切れまくった衝撃の一文に感じられただけなのか、わからない。

(だいたい、英語が、とても短く、少ない単語の組み合わせで多くを語るような文の構造に出会うとき、私は感動するから。)

ただあとで、女性の同僚に聞いた所によると、彼は今朝ほど、

「もうすぐ春だなあ。街の人のコートの色が少しずつ春っぽくなってきたよね。僕も春物のコート買わないとなあ」

とぼんやりと日本語でつぶやいていたそうだから、

こういうことをつぶやく人ってのは、

ポストイットの殴り書きも自然と文学的なものに偶然なったりする。

そういう気がする。

いずれにせよとても幸せな気持ちになったので、私なりにつたない英語にて、その気持ちをメールで書き、

ポストイットをもらい、

ついでにチョコレートクッキーももらった!

チョコあげてないけど!

Thank you!

注):あまりにも素晴らしい一文だったので敢えて「×××」の部分は秘密で。

冬の北欧を知るために

冬の北欧について知るために村上春樹の「遠い太鼓」を買ったのが昨年9月のことだった。

それでとりあえず寒いのは当然のことながらろくに美味しい食べ物もないようだし、非常に微妙な感じだった。

なのに結局、行くことにした。

せっかく寒い時期に行くのでヘルシンキではなくもっと北に行く。

不思議なものだ。

凝りに凝った皮肉(わたしのにくめない上司)

とんでもございます〜

って電話口でいかにも恐縮してる風に上司が言っていたのだが、電話を切り終わった直後、彼に

「さっき、『とんでもございます』って言ってましたよね?」

と尋ねたら

「ええ?ほんとうに?」

と目をぱちくりさせて驚いていた。最強やな。

「もしかして相手も思わず聞き流してしまうほどに深く隠されたあらての皮肉ですか?」

「とんでもない!」

「あ、そう」

その後、彼は「とんでもございます」という日本語があるかどうかねんのためGoogleで調べたが、発見したのは、「とんでもない」で一語の形容詞であってそもそも「とんでもございません」もナシ、言うとしたら「とんでもないです」であって、「とんでもございます」など意味は誰も(ヤフー知恵袋でさえも)質問していなかったし答えている人もいなかった。

「へ〜〜」

と、職場メンバー一同、勉強になった。

Good Job !

文(ふみ)

私には熱心に小説を読んだ記憶というものがなく、一体これまで何をして生きてきたんだろうかと思う。

実家に帰るたびに、高校3年生のままで時の止まった私の部屋の本棚を眺めては複雑な気持ちになる。

そこは主に三つの要素で構成されている。一、漫画「ちびまる子ちゃん」が15冊くらい。二、赤川次郎の推理小説がずらっと20冊ほど。三、それ以外。

ちびまる子は小学校の時にはまった記憶があるけれど、赤川次郎はいつ、なぜ、これほど読んだのか?まったくの謎である。(そしてストーリーについての記憶が一切ない。主人公の名前も。)

そして「三」に含まれる物の中に、唯一、私が誇れそうな小説の背表紙を発見する。

「O・ヘンリ短編集」(一)、(二)、(三)。

これは確かに読んだ記憶があるし、そして四ッ谷あたりにある某私立大学の受験の時に、そこは英文学志望者は筆記試験の後に英語面接を受けなければならなくて、その時に、「どんな外国文学を読んでいるか」と聞かれて「読んでない・・・」と思いながらもかろうじて回答にふさわしいものの名を挙げる事ができた、それが「O・ヘンリ」という記憶がある。もしその面接官がもう少し利口で「ほかには?」と聞いていたら私は大ピンチに陥っていたと思うのだけれど、その時の彼は、「ほほう」と割と嬉しそうな満足げな表情になって、次の質問へと移ったのだった。

(ちなみにその質問の前に、「日本文学では何を読んでいるか?」と聞かれてかろうじて挙げられたのは灰谷健次郎、であった。しかし灰谷作品を読んでいたのは小学校4、5年の頃である。大学受験の面接でまさか小学校時代に読んでいた小説家の名前を挙げてお茶を濁す人間がどこにいるだろうか。私を除いて。)

今思えばこの時の英語面接のその場しのぎ感というのはものすごいもので、もう一つ別の、外国語学部英語学科、だったか同じ英語なのだけれど微妙に違うコースを受験した時の面接では「入学後は何を学びたいか」と聞かれて、しかしその人がネイティブ・スピーカーなものだから速すぎてなんどもその質問を聞き返して、あげく、何と答えたら良いか分からず「シェイクスピアを読みたい」と答えた。するとそのネイティブ・スピーカーは「了解。しかしシェイクスピアはここでは読まないけどね」的なややいじわるな何事かを言って次の質問へと移った。

さらに今思えば、この大学は大人になってから知ったけれど英語関係の学科などに行った日には帰国子女や留学経験者がゴロゴロいるのだから、私のような北関東から一歩も出ずに地元の公立高校でぼけっと過ごしたような人間が行ったらひどいめにあっていたと思う。友だちは一人もできずに登校拒否になっていたんじゃないかと本気で思う。O・ヘンリーと答えた時に少し嬉しそうだった面接官のことを私は結構好意的に記憶しているけど、入学だけはしなくて本当に良かった。だいたい、当時は英語が得意だし「好き」だったから英文学科と英語学科を受けたらいいじゃんというノリだったけどいまでは英語を勉強するのがどちらかといえば苦痛である。

高校生の自分が考える事はほぼアテにならない。

恐らく小学生の時はまだ多少の小説を読んでおり、それが上述の「二」であり、中学と高校はほぼ一切読んでいなかったに違いない。O・ヘンリを除いて。人が本を例えば50冊くらい読む時間の全てを、スピッツのCDを延々とリピートして聞き耽っていたのだろう。

そんな訳で、私を救ったO・ヘンリという人が書いた小説については、十年以上の時を経て、再読しようかと思ったりしている28歳の今日この頃である。

(間違っても「ちびまる子ちゃん」や「赤川次郎シリーズ」が誇れないといっているのではない。いずれも10代とそれ以前(のことを何て呼んだら良いんだろう?ゼロ代? の私に寄り添っていた大切な本なのだから、間違いなく。)

今週末に迫った

日曜日の結婚式で歌う歌を準備している。

オザケンの「僕らが旅に出る理由」と自分で書いた曲を歌う。

結婚式で流すBGMについて、歌詞に「別れ」やそれを連想させるものが入っていないかどうかを気にして、「ああ、これもだめか、こっちもこんな歌詞だったのか、だめだ!」となることがあるらしいけれど、

私は私がぜっったい、いいと思う選曲をしたと胸を張って言える!

(といいきかせる)

あとは練習に専念するのみだ。

日曜日に集まった人たちの中だけでいいから、そこで、この歌が今日鳴り響くことが素敵だなと思ってもらえたらとても嬉しい。

特に、家族がそんなふうに。

スピッツ / 小さな生き物 (by spitzclips)

特別な日だという気分だったので花を飾った。
花が嬉しいのは最近家にいる時間が長いせいかもしれない、こうやって北欧人はインテリア文化を発達させていったのだろうか。。など考えたりする。
お花を買って飾って数時間後、
さらに素敵な出来事が起こり、この日はやっぱり特別な日になった。

2013年8月3日

特別な日だという気分だったので花を飾った。

花が嬉しいのは最近家にいる時間が長いせいかもしれない、こうやって北欧人はインテリア文化を発達させていったのだろうか。。など考えたりする。

お花を買って飾って数時間後、

さらに素敵な出来事が起こり、この日はやっぱり特別な日になった。

2013年8月3日

僕と上司は密室会談をする

別々の職場で働く同年代と再会して近況などを聞く。

残念な面談についての話題。
会社員をやっていると、上司との目標達成の確認や評価のための面談?のようなものが時々ある。年に何度か。

どうもいくつかのタイプがあるねという話になった。

①信じて疑わない

お前は優秀だからこのまま頑張ってAやBといったことを目指してくれていいんだという道を示される場合。

AもBもまったく魅力的と思っていないし興味もないのだけどそのことに上司は気づいていないらしい。そして、この話をする時の前提として、これを言っている本人は「上にいる人」、「お前達から目指されるべき位置にいる成功者」として語っているらしい。

自分が望むように、目の前にいる部下もそれも望むしそれこそが成功であり素晴らしいことに違いない、

とどうして疑わずにいられるんだろう。

前提が違うまま、価値観を押し付けられるこの感じが早く過ぎ去れば良いのにと思い若者は口を閉ざす。

前提の違いに目を向けようともしないこの人と、創造的な仕事ができるだろうか?本音を語る意味があるだろうか?

そういう「?」をお土産にもらうことが多いんだけど、例えばこのことについて気づくきっかけを与えられなかっただけで自信の上塗りが進行しているのだとしたら、もし、言ってみたらどうだろう。ちょんちょん、と肩をつついて。その思い込みについて。

不惑の40代をぐいぐいいっているような相手に対して・・・?

シラケではないアツイ未来が待っていたりするだろうか。

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②言わねばならない哀愁

①と同じくAやBを示すのだけど、でも、

「ああ、この人は本気でそう思っているわけではないけど、立場上、中間管理職としてこう言っているんだな」、と感じられる場合もある。

そういう時はもう、哀愁。

同じように半々の気持ちで、ポーズとして乗っかってみたりする。

そーっすよねえ。

・・・・

確かに、いいですよねえ。頑張ります。

これは共犯みたいなことなのかな。寂しいような生暖かいような気持ちも抱えつつ、同じ人間だし、上司のあなたも頑張ってねという気になる。

 

 

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③本当になにもない場合

本当に正直に何も示すべきビジョンがなくってそれを本当に正直に言ってしまわれる人もいる。

自分なんてお手本にならないけど・・・というダメキャラを潔く認めていたり。

でもさすがにそれで終わりじゃない。

慰めみたいに小さな事一つ二つでも、希望となる断片を見つけて、ぽつり、ぽつりと言葉を付け足す人がいたりする。

そーっすよねえ。。

希望となる断片があまりに些細な事柄すぎたとしても、そしてあまりに心もとないなと思ったとしても、

面談の部屋から出てドアをパタンとしめたとき、

「そして私はどうしよう?」

と力がわいてくるのはこの場合だったりする。

ちっさなちっさな(多少こじつけみたいな)希望の破片をちゃっかり握りしめながら。

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20代も終わりに近づいてくると、色々なBossと、色々な面談を経ている。

若手の、受け手のこんなもやもやを拾い上げてみたら、もっと、どうだろう。リーダーシップ考察などというのは。

2013年7月28日